しょがしょが壁打ちブログ

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ネタバレ有 映画 ある閉ざされた雪の山荘で 感想 後編

ある閉ざされた雪の山荘で 東野圭吾原作

1月12日(金)映画公開・観賞

1月16日(火)記事公開

 

前回記事を上げてすぐで恐縮だが、第二回として、後から思ったこと、他人のレビューを観て思ったこと・気づいたことを書く

映画観賞後のネタバレレビュー巡り、つまらない作品の後にこそ楽しめるものである

前回は一応、完全に自分の考え、気付き、だけを述べている、ということにしておこう

ネタバレ有 映画 ある閉ざされた雪の山荘で 感想 ① - しょがしょが壁打ちブログ

 

映画・原作とも結末含めて完全にネタバレ有、および映画酷評につき、
未読勢・未観賞勢・ファンの方は閲覧注意
また、映画か原作のどちらかを読んだ人向けの記事になっています

 

 

・バス

全員が目隠しをしているが、傍から見て異様すぎるし運転手は何も思わなかったのだろうか?
しかも路線バスを降りた瞬間に目隠しを外していたら現在地もバレバレであり意味がないという指摘レビューも、観ているときには気付かなかったが確かに全くもってその通り
バス停があったかどうかまでは覚えていないが、路線バスではなく特別に運転手を雇ったのだとしたら…
久我はどうして別行動をしたのか?
所属が違うから別々に送迎をしたのか?
そもそも密室になることを見込んだ山荘なのに、場所を隠す必要はあったのか……?

 

・人間ドラマ/群像劇としての視点

この作品はミステリでもあるが、群像劇としてどうこう……といった視点のレビューがある
自分は、群像劇としても掘り下げ不足と感じた
キャラ付けで個性があるのは田所の「ガワ」が面白いくらいだと感じた

せっかく久我が水滸フリークで部屋に写真も貼ったりしているのだから、中盤あたりで一度人間関係整理のシーンを挟むなりすればいいのに……

ただしそうだとしても「動機」についての会話が印象付けられることはなく、解決編を除けば花瓶のあたりでわーっと言い争うくらいで、不親切に感じる

(これは自分の読解力のなさもあるかもしれない。映画ではセリフから情報を整理することが苦手なのだ)

大切な情報はビジュアルとともに少しずつ丁寧に出していってほしい

 

・演技の演技

演劇の映画、映画の映画、演奏者の映画、というものは、言うまでもなくとても難しい

小説であれば地の文が神様だから「彼は素晴らしい演技力を持っていた」などと言い切ってしまえる
(もちろん実際には作者の文章力で説得力を持たせるのだが)

素晴らしい演技力(という設定)を映画で見せるには、本当に素晴らしい演技を見せなくてはならない(この辺りの表現が文章では難しく、伝わるか不安である)
しかも素晴らしい演技力を持つ役者の素の状態という、これも二重の演技をしなくてはならない
さもなくば「演技」部分を描かないなどしてごまかすしかない

今回の映画は、「舞台上での演劇」をこなすシーンはほんの僅かだ

久我他7名が「舞台上で」説得力のある演技を見せてくれれば、本映画の評価もそれなりに上がっただろうと思った

 

・主題歌

本映画の主題歌は主演アイドルのグループの新作であり、歌詞の内容が映画の内容とリンクしている、ということだった

しかし主題歌はあくまで物語の外であり、主題歌の評価には繋がれど、映画の評価には繋がらない、と考えている

(アニソンでも良くあるが、「主題歌の歌詞・世界観がアニメ本編と繋がっている」パターン。これも、好きではあるし、主題歌や歌手は素晴らしいと思うが、それが本編内で使われていないなら「関係ない」ことであり、作品評価とは切り離すべきと考える

漫画でたまにある、「扉絵に伏線が貼ってある」「単行本の表紙に伏線が貼ってある」などというネタ、これも個人的には、扉絵・表紙は本編の外であるから、これを伏線として本編の展開を考察するのは邪道である、と思っている

結果を見ると作者からの暗示・メッセージ・仄めかしなのは間違いないし、仕込んだ作者も、気付いた人もすごいとは思うが、それを「伏線」と呼ぶのは…どうなのだろう?)

話を戻して本映画の主題歌だが、歌詞は合っているかもしれないが、曲調がミスマッチ(ザ・アイドル曲感&ラップ調パート)すぎて、全体の雰囲気も微妙に思える……

 

・ラストの演劇オチ

前回記事で話題にした、天井に浮かぶメッセージの演出や、間取りの俯瞰視点など、不自然な演出はそもそも「劇中劇の舞台上の演出」であるため、正当である、という主張

これは全く通らないと思う

今までの「演出」が演劇上でのことなのだとしたら、我々「映画の観客」をも「作中の演劇の観客だったのだ」とみなす必要があるわけだ(山荘で起きる事件すべてが「舞台上の出来事」、ラストの舞台挨拶あたりからが「本当の神様視点」)が、あらゆるシーンでそういった作りになっているとは思えない

そう考えると、矢張り山荘事件は現実であり、時間が飛んで数週間~数か月後のエピローグとして、オーディションに合格した久我が脚本の才能を発揮して劇を仕上げました、のほうがしっくりくるだろうか
それならそれで東郷のスランプのくだりも入れた方が、久我の成功ストーリーに厚みが出て良い気はする…

 

・東郷の真似

観ているときは気にも留めなかったが、「田所が東郷の真似をするシーンはミスリード」というレビューがあり、なるほどと思った

 

・オーディション設定

オーディションという設定なのにほとんど真面目に役作りをしていないのも没入感を削がれる

原作では、少なくとも前半において、やや面白半分ながら皆は役に入り込もうとしていた
(あくまで雪の山荘という舞台、殺人事件という出来事に真摯に対応していた)

 

・そもそも

原作小説は「語り手が実は…」タイプの叙述トリックであり、その明かし方が大オチであり、それがあるからこそ「映像化不可能」などと言われていたはずだ
(ここまでさんざんネタバレしておいてなんだが、僅かに残った一抹の良心により、そのあたりを具体的には書かないことにする)

映画では原作の叙述トリックを(無かったかの如く)無視しているし、そのことについて触れているレビューも本当にごく僅かだし、自分も正直そんなことは忘れるくらい他の項目がひどかったが、本来であればそこが原作との改変的に一番マイナスとなるべき部分のはずである

 

まあ本作は「叙述トリック作品の実写化」という評価の土俵にさえ立てなかった作品、といったところだろうか……

 

感想レビュー後編 約2500字 所要時間約1.5時間

溜まっていた鬱憤を吐き出せてかなりスッキリした