しょがしょが壁打ちブログ

全て個人の感想です

ネタバレ有 映画 ある閉ざされた雪の山荘で 感想 前編

ある閉ざされた雪の山荘で 東野圭吾原作

1月12日(金)映画公開、観賞

1月16日(火)記事公開

 

妻氏が、主演の某アイドル(あまり捕捉されたくないので名前は出さない)の(熱狂的な)ファンということで、映画に付き合わされた形である
去年末に映画化決定の帯付き原作文庫を買い、読んだうえで公開初日の1月12日に観賞

良かった点、悪かった点、気づいた点、気づかなかった点、書いていく

映画・原作とも結末含めて完全にネタバレ有、および映画酷評につき、
未読勢・未観賞勢・ファンの方は閲覧注意
また、映画か原作のどちらかを読んだ人向けの記事になっています

余談)ブログというのはどこまで写真・画像・他サイトへのリンクを貼っていいか、正直分からない……
一応原作の写真だけ自分で撮って貼っておくが、ブログらしくするのであれば購入リンクやら、映画サイトへのリンクやら、あってもいいかもしれない

帯付きを探して原作を買うファン精神はリスペクトしている

 

全体の簡易感想:

私個人としてはあまりに退屈、わざわざ映画にする必要なし、金を払って損をした、というレベル
映画の予算でしか出来ない何か、映画でしか表現できない何かがあるようには思えなかった
正直、テレビドラマSPにでもすればいいものを…
主演アイドルのファンには嬉しい?喜ばしい?シーンがいくつかあり、また、映画主題歌がそのアイドルグループの新曲なので、そういったファン層は楽しめるのかもしれない
自分も櫻井孝宏石田彰の声を映画音響で聴くためだけにザ・バットマンを観に行ったので、気持ちは分かります……

収穫:

興味のない、ましてや原作既読のミステリ映画など、付き合わされても観るものではない、という学び、反省

 

気になった点と考え:

引っ掛かりのないシーン、物語の展開に特に関係ないシーンには触れない

あらすじも特に書かない(疲れるので)

久我が山荘に呼ばれた理由

映画を観ていて主人公・久我の部外者感が半端なかったので原作を読み返したが、序盤の時点で普通にオーディションに合格していた……
原作では久我の独白が中心にあるので、あまり気にならなかったが、神様視点の映画版だととても引っ掛かる部分である
映画中での久我は特に優れた演技(役者役としての演技)を見せるわけではなく、役者として脚本に入り込む感じでもなく、合間に1か所だけコントのようなふざけた演技シーンがあるだけだった
役者論らしきものを語るシーンはあるが、映画での久我は「演劇の選考で数百人の中を生き残った舞台役者」ではなく、「劇団水滸のファン(本人曰くフリーク)」として描かれている場面が多かった

山荘入り~脚本家からの指令

誰もいない山荘でくつろいでいると突然天井に文字が表示され、大塚明夫のナレーションが始まる
時計が映っていた時はそういうプロジェクタを使っているのかと思ったが、場所さえ問わずにメッセージまで表示されるのはあまりにも現実感がない
映像的にも違和感が強く、メタ的描写で気に食わない

ここは原作通りに速達がくる、あるいは、山荘に管理人を置いて手紙を渡されるでは駄目だったのだろうか?
「事件」が起こるたびに同様に天井にナレーションが出るが、これも原作ではメッセージが現場に置かれているという描写であり、映画でもそれでよかったと思う

山荘の間取り・俯瞰視点

映画中では山荘の「間取り図」の上を登場人物が行動し、それを2D的俯瞰視点で見せるカットが何回も繰り返され、いかにも伏線が張られているように見せているが、特に回収されるような要素はなかったと思う……
原作の間取りも隠し部屋程度の仕掛けだったので、それなら俯瞰視点に意味があったのか?と思ってしまう
前項のメッセージ表示のように、特に必要のないメタ視点であり、個人的には好かない

第一の殺人

伏線としてはヘッドフォンのコードの状態(ピアノに刺さっていたはずが抜けていた)があるが、この理由づけも変わっていた

原作:防音の遊戯室で一人ピアノを弾くのに、ヘッドフォンをする必要はない
→ヘッドフォンをしていないのに、自分を殺しに来る気配に気付かないはずがないと(殺された演技をしなければいけない)被害者が気付く
→ヘッドフォンを付けてピアノを弾き、殺されたふりをする
→防音室でヘッドフォンを付ける不自然さに犯人が気付き、後で抜いていたのだ

映画:凶器がコードであるなら、相手を殺すためにはきつく(二重に)首に巻き付けなければならず、(被害者が暴れるのと併せて)ヘッドフォンのコードがピアノから抜けているはずでは?
→実際には犯行時(演技の際)、ヘッドフォンのコードは挿しっ放しであった(殺意の否定につながる)
→上記のことに犯人が気付き、後で抜いていたのだ

書いていて思ったが、これは個人的には微妙な改変だと思う
この状況は全て隠し部屋の麻倉雅美に見られているわけである
しかも「本気で殺す/殺される」の演技を見せているのである
最初から見られているのが分かっているのだから、抵抗する方も本気で抵抗する演技をするだろう
→麻倉雅美に「本気」の演技を見せていたのだから、「結果」として、コードの抜ける抜けないはあまり関係ないのでは?
と考えられる

久我と本多のアリバイ作り

原作ではさらに第三者に証人を頼み、ベッドでバリケードを作っていたので二人のアリバイは完成されていた
映画では紐で互いの手首を結ぶことになるのだが、これでは原作での懸念「二人のどちらかがもう片方を殺した場合」が解決されていないのでは?
また、わざわざ紐に変更したのは、「田所が手品のように紐の結び方に細工をし、こっそりほどいて犯行に及んだ?」という原作改変の伏線(ミスリード)かとも思ったが、そもそも本多が実行犯なので、これはこれでミスリードと呼べるのだろうか…
映画中では本当にバリケードが紐に変わっただけだった。(ハートのくだりを入れたかっただけ?)
三者への証人依頼も無かったように思うが、見逃していたかもしれない……

 

凶器の花瓶

原作では:犯行現場は東郷からの指示書に犯行の状況が書いておいてあるだけで、そこには「この張り紙を鈍器(花瓶)とする」という一文
しかし本物の血がついた花瓶は実際に山荘の裏で見つかっており、「これは演劇ではないのでは?」「本当に被害者は殺されているのでは?」と疑念が生まれ……しかしオーディションが続いている可能性も否定出来ず、密室は続く……
このあたりが原作の展開の一つの山場と感じている

映画:現場には大量の血糊、血の付いた花瓶はテーブルの上に置いてある、と改変されていた
これは個人的には「オーディション設定」と「本当の殺人」のバランスが崩れ、「本当に殺人があった」に寄っているように見えてしまうと感じた
(原作未読では「なんだかんだ言ってないで警察呼べよ」と思った人が大半だったのでは?と想像する)
こういうのも、血糊自体を伏線(ありがちだけど本当の血を隠すとか)に使うなら意味があるが…


井戸

井戸を見下ろして田所が吐くシーンは完全にミスリード
原作既読なので、こういうシーンを新鮮な気持ちで観ることは出来ない
ただ、見せ方としては花瓶と同様、映画の観客を「本当の殺人」寄りの視点にしてしまい、あまり良くないのでは?と思う

原作では、懐中電灯で中を照らし、井戸に石まで投げ、遺体は無さそう…だがセーターの糸は引っ掛かっている…という方向に結論付け、この辺りの展開の持っていき方で、オーディションなのか、殺人なのか、読者にも迷いを生じさせている
(実際にはその予想を超える展開が待っているのだが)

 

第三の殺人

あまりにも「やっつけ仕事」すぎるだろう…
原作では睡眠薬を盛られて云々、という展開だったが、映画では本多以外の面子が全員で示し合わせてアリバイを作り、犯行状況を録画していた、という流れだったと思う

(このあたり、もうあまり真面目には観ていなかった……)


最後のメッセージ

「これにてオーディション終了、謎が解けたものは後日集合」なんて、
そんなことあるか?
そもそも演劇役者のオーディションであって、探偵のオーディションではないのでは?
まあ、犯人視点、目的は達成したので雑に終わらせてもいいのだろう……
麻倉雅美は全て終わったら死ぬつもりだったし

麻倉雅美

ここが一番悪い改変では?と思っている
動機、というよりは、麻倉雅美の身に起こった不幸である

原作では:3人が麻倉雅美を茶化しに来て、帰り、2人が事故ったと嘘の電話をかけるところまでは映画とほぼ同じだが、電話を受けた雅美はショックを受け、「雪山で自殺未遂」により、下半身不随に……という展開

映画では:帰りのSAで休憩している笠原から、他の2人が事故ったと連絡があり、雅美がスマホで「えっ?」と気を取られ、無意識に車道に飛び出してしまい、交通事故に遭い、下半身不随に……という展開

正直に言って、自分は映画の麻倉雅美の境遇に全く感情移入出来なかった
いくらふざけた電話があったとはいえ、前も見ずに飛び出して交通事故では自己責任であろう…
3人が責任を感じるのまでは勝手だが、それで復讐というのでは、逆ギレもいいところである

この改変についてだが、まさか自殺シーンを撮ることも、自殺を絡めた物語にすることも今はよろしくない(ご法度)のだろうか?年齢制限(R-18とか)回避的な理由か?女優のイメージ、あるいはNGの問題か?客層の問題か?
もしそういう事情だけで自殺を交通事故なんぞに改変するなら、ミステリ映画なんてやめちまえ!と思う

ただ、自殺未遂は自殺未遂で、その後3人を許す許さない、役者復帰するしない、の説得力の方に疑問が出てくるだろう、そのあたりの采配かもしれない……

 

ラストの演劇オチ

ここも正直、必要なのかどうか、という意味でよくわからない追加シーンだった
山荘の事件は現実なのか?すべてフィクションオチなのか?
久我の脚本家適正(これも映画での改変)の伏線は回収されたが、あまり気持ちのいいものとは感じられなかった
妻は「泣いてる「彼(主演アイドル)」が観れた、カワイイ」と、大変満足げだったが…
興味ないもの目線ではどうでもいい

 

「映像化不可能」というキャッチコピー

不可能かどうかはともかく、原作を読んだ時点で面白い映画にはならないと思っていたが、その通りだった


終わりに

原作小説を読んだときは「ああはいはいこういう系ね」という感じで、特に思うところもなかったが、映画を観て、ブログを開設し、記事のために部分部分を読み返すにつれ、この原作は中々良く出来ているなあと感じた

「本格」感はあまりないが、ライトな感じが読みやすく、こんな感じでさらっと単発映画にしやすいのだろう、東野圭吾原作小説の感想、伏線も書いてみたくはあるが、2時間の映画の感想だけで4500文字……
壁打ちとはいえ疲れてしまう

特に映画というものはつまらない方がいろいろと語りたくなるものであり…あれがだめ、これがだめ、と粗を探すのも、他人の低評価レビューを見るのも個人的には楽しかったりするし、良かったものについてはこち亀の例の画像のごとく、「いいよね…」「いい…」となっておわりがちである

良い物を語るのは悪い物を語るより難しいと思う

第一稿 約4500字 所要時間約4時間

ネタバレについて
注意喚起はしているつもりですが、現在公開中の映画ということもあり、怒られたら消します